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2026.07.22
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栗下直也の東京酔歩 偉人と歴史の裏路地
2026.7.20
第三回 水道橋「かつ吉」 筋トレを一年間しても何も変わらないので、三島由紀夫がジムの後に通った店で肉を食ってきた
経済記者出身でありながら、なぜか酒にまつわる執筆が多い栗下直也。そんな栗下が、かつての偉人たちが愛した酒場を訪ね歩く。政治家や文豪、実業家たちはどんな酒を飲み、何を語り、どのように夜を楽しんでいたのか。実際に店を訪れ、その酒と歴史を味わいながら、偉人たちの日々を垣間見る“大人の酒場紀行”である。
第三回は文豪の三島由紀夫や川端康成が通った、水道橋のかつ吉である。
筋トレ一年、変化ゼロ
誰にも言っていないが、この一年ほどジムに通っている。パーソナルトレーナーがついている、ちゃんとしたジムだ。だが、誰にも気づかれない。誰にも言っていないから「筋トレしてるんですね」と言われないのかもしれないが、考えてみれば、誰にも言っていなくても、外見が変われば「なんか締まりました?」とも言われるものだ。何も言われないということは、何も変わっていないのである。
実際、体重は横ばいで、筋肉はほとんど増えていない。トレーナー氏いわく、食べ物が大事らしい。酒を飲みすぎるな、たんぱく質を摂れと何度もご助言をいただいた。ごもっともである。ごもっともであるが、酒は飲みすぎているし、肉よりも糸こんにゃくを食べている。
何だか、もはや中年どころか初老のぼやきであるが、そもそも、二十年近くまともに運動していない人間が「運動後はたんぱく質を」などと言われても、運動しただけでヘロヘロなのだ。たんぱく質どころか糸こんにゃくも勘弁願いたいし、プロテインは胃腸が弱いのであまり飲みたくない。卵をぐびぐびジョッキで飲んだり、トレーニングのあとにステーキを食ったりはユーチューバーに任せておけばいいのである。あんなものはパフォーマンス以外の何物でもないだろう――そう思っていたら、ある偉人を思い出した。
三島由紀夫である。
文豪、バーベルを握る
三島がボディービルを始めたのは昭和三十年、三十歳のときだ。身長一六四センチ。細身のインテリ作家が「自分に欠けているのは肉体だ」とばかりにバーベルを握った。やがて通うようになったのが後楽園のジムである。競輪場の一角に昭和二十八年に開かれた、日本で最も古いボディービルジムのひとつだ。当時は「インテリが筋肉なんて」という偏見すらあった時代である。ノーベル賞候補にもなった文豪が、水道橋で汗だくになってバーベルを上げ下げしていたのだ。
三島は、鍛えたあとに肉を食った。その店が、ジムから目と鼻の先、今も水道橋にある。とんかつの「かつ吉」だ。鍛えて、歩いて、食う。動線として、これ以上ないほど正しい。
地下に広がる古民家
JR水道橋駅の東口を出て、白山通りの向こうに東京ドームシティを眺めながら歩くこと数分。全水道会館というビルの地下一階に、かつ吉水道橋店はある。ビルの地下と聞いてチェーン店的な店内を想像して階段を降りると、面食らう。古材と骨董に囲まれた、古民家がまるごと一軒、地下に埋まっているような空間が広がっている。壁一面の蕎麦猪口をはじめ、並ぶ骨董はおよそ二千点。玉川上水で実際に使われていた水道木管まで店の造作に使われている。水道橋の地下に水道管。出来すぎである。
創業は昭和三十七年。創業者の吉田吉之助は信州・安曇野の育ちで、旧制松本中学を出て、戦後、満州から引き揚げ、古道具屋などを経てこの店を開いたという。店内の骨董趣味は古道具屋時代の名残りだろう。
平日の夕方、まずはハイボール。筋トレはしていないが、水道橋駅ではなく東京メトロ後楽園駅からここまで十分ほど歩いてきたのだから運動後といえなくもない。運ばれてきた一杯をぐいとやると、濃い。むせるくらい濃い。断っておくが、「濃い目で」と頼んだわけではない。普通に頼んでこの濃さというのは、日本ハイボール党の党首である私でもあまりお目にかかれるものではない。とんかつ屋の顔をして、なかなかの曲者である。
メニューを開くと、とんかつ屋なのにステーキ、ハンバーグ、旬の魚と、想像より守備範囲が広い。濃すぎるハイボールにはすぐに出てきそうなつまみが必須なので刺身の盛り合わせをチョイス。肉料理は迷った末に、大皿盛りの「松」。ひれかつ、特大天然海老フライ、海老かつに、三島ゆかりのステーキまで一皿にのってくる。この店の看板を一枚で総ざらいできる代物だ。トレーナー氏に見せたいくらいの、たんぱく質の布陣である。
デミグラスを醤油に変えた男
この店のステーキには、三島がらみの逸話がある。ソースは、もともとデミグラスだった。それが三島の提案がきっかけで醤油ベースに変わり、その味が現在まで受け継がれている。洋食風の王道ソースを、常連の一言で和の味に切り替え、しかも半世紀以上守り続ける。言い出した客も客だが、受けて立った店も店である。鍛えた体で通い詰めた末に、店の看板の味まで変えてしまう。常連の最高到達点と言っていい。
常連は三島だけではない。創業者の吉之助と懇意だった川端康成もこの店の味を愛した。ちなみに、三島は、ボディービルを始めて間もない昭和三十一年、創刊されたばかりの「週刊新潮」にビル仲間の募集告知を出している。条件は「キャシャな小説家に限る」。しかも会長は川端康成氏にお願いしたいとまで書いた。会員は当時、三島ただ一人である。のちのノーベル賞作家を筋トレサークルの会長に担ごうとした男と、担がれかけた男が同じとんかつ屋の常連になったわけだ。
もっとも、この店に残る逸話は、文豪絡みばかりではない。近くの競輪場ですってんてんになった客が子連れで現れると、黙って飯を食わせてやった、という創業者の逸話も残っている。文豪にも一文無しにも、同じように旨いものを出す。いい店だ。
箸で切れるとんかつと、醤油のステーキ
やがて運ばれてきたのは、堂々たる大皿である。数種類のかつがずらりと並び、その脇に醤油味のステーキが数片。骨董の器に盛られて、涼しい顔で鎮座している。まずはステーキから箸を伸ばす。醤油の香ばしさが鼻にくる。洋食の顔をしているのに、味の芯は完全に白飯の側に立っている。なるほど、これは三島が正しい。濃いハイボールにも負けない味だが白飯をかき込みたくなる味でもある。とはいえ、筋トレに白飯の食いすぎは禁物らしい。いまさら気にする体でもないが、さすがに白飯は頼まなかった。酒はしっかり飲んでいるくせに、守るところがそこなのかと突っ込まざるをえない。
続いてかつ。かつ吉のとんかつは、低温の油で「煮るように」じっくり揚げるのが流儀で、揚げ時間は二十分を超えるという。せっかちな人は頼んではいけない。その代わり、出てきたかつは箸で切れる。衣はさっくり、中の肉はふんわりと甘い。盛り合わせだから一切れごとに表情が違って、ゆっくり火を通された肉が口の中でほどけていくーと書くといかにも食通のようだが、実際には夢中で食っているだけで、ほどけているのか噛み切っているのか、よくわかっていない。わかっているのは、旨いということと、ソースもいいが塩でいくと肉の甘さがよくわかるということ。そして、ハイボールは相変わらず濃いが、気がつけば三杯目だ。あの濃さで、三杯目である。筋トレをしていないのにたんぱく質とアルコールだけが着々と摂取されていく。
国産銘柄豚ひれかつ、特大天然海老フライ、海老かつ、和牛ヒレステーキなど。
三島は鍛えたあとにここで肉を食った。運動と栄養。理屈としては完全に正しい。彼のその情熱がやがてどこにいったのかについては、酒の連載であるのでここでは書かない。ただ、地下の骨董に囲まれてかつを食べていると、バーベルを置いた文豪が階段を降りてくる姿くらいは、ちょっと想像してもいい気になる。
店を出ると、日が暮れていた。白山通りの向こうで、東京ドームシティの灯りがまたたいている。三島が通ったジムがあったのは、あのあたりだ。ジムも競輪場も、とうに消えた。いまは観覧車の回る遊びの街である。それでも、通りのこちら側では、かつ吉が半世紀前と変わらず、かつを揚げている。文豪は、鍛えてから食った。私は、食っただけである。順番の問題ではない気もするが、とりあえず糸こんにゃくよりは前進である。
余談だが、翌日、別の飲み屋でハイボールを頼んだら、水かと思った。いや、店に罪はない。かつ吉の一杯が基準になってしまっただけで、普通の濃さなのだろうが、その晩は「濃い目で」「すみません、もっと濃い目で」とひたすら連呼するはめになった。とんかつ屋に酒の基準を狂わされるとは思わなかった。恐るべし、水道橋。違うか。
本日のおすすめ
大皿盛り松<2人前>
国産銘柄豚ひれかつ、特大天然海老フライ、海老かつ、和牛ヒレステーキなど 6,700円
お刺身三点盛り 1,480円
富士山麓(ハイボール) 500円
店舗情報
かつ吉 水道橋店
住所:東京都文京区本郷1-4-1 全水道会館ビルB1
電話:03-3812-6268
営業時間:平日11:00~15:30/17:00~22:30、土11:00~22:30、日祝11:00~22:00
※営業時間・価格は変更の場合があるため、店舗にお問い合わせください
アクセス:都営三田線 水道橋駅 A1出口 徒歩約1分
JR総武線 水道橋駅 東口 徒歩約3分
栗下直也 Naoya Kurishita
1980年生まれ、東京都出身。著述業、書評家。横浜国立大学大学院国際社会科学研究科経営学専攻修了後、専門誌をへて独立。経済記者出身でありながら、なぜか酒がらみの文章が多い。著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)『偉人の生き延び方 副業、転職、財テク、おねだり』(同)、『政治家の酒癖 世界を動かしてきた酒飲みたち』(平凡社新書)、『得する、徳。』( CEメディアハウス)がある。
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