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2025.08.31
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永遠の聖地、伊勢神宮を巡る
2025.8.29
この日だけの特別に出合える 伊勢神宮「お朔日(ついたち)参り」とは?
八朔参りの様子。筆者がペットボトルに水を汲んでいると、隣にいた年配の女性が、容器いっぱいに水を入れると、1年間水が腐らないこと、持ち帰った水は、痛いところに付けるだけでなく、玄関を清めたいときにまくこともある、などと教えてくれた。なお、近年は八朔の夕刻から夜にかけて、外宮をゆかた姿で参拝する「外宮さんゆかたで千人参り」も行われている。
新しい月のはじまりの日に、氏神様などの神社に参拝する「お朔日(ついたち)参り」。前月の1ヶ月間を無事過ごせたことに感謝を捧げ、新たな1ヶ月間の無病息災や家内安全を祈るというこの風習は、日本各地で古くから行われてきた。
なかでも伊勢地方では、その昔、8月1日の早朝に神宮の内宮、外宮の両宮をお参りし、粟や稲の初穂を神前にお供えして、五穀豊穣と無病息災を祈る「八朔参宮」のならわしがあったという。
今回は、そんな「八朔参宮」を今に伝える「八朔参り」とともに、普段とはちょっと違う神宮参拝のあれこれをご紹介しよう。
「八朔(はっさく)参り」という言葉をご存知だろうか?
そもそも「朔(さく)」は、旧暦の太陽太陰暦でその月の第1日目を指す言葉。つまり「八朔」は「八月朔日(さくじつ)」の略で、8月1日を指している。
ちなみに、朔日は「ついたち」とも読む。月の満ち欠けの周期を利用した太陽太陰暦では、毎月最初の日が新月に当たることから、「ついたち」という言葉も、「月立ち(つきたち)」から転じたと考えられている。
「八朔参宮」の源にある祈りと、現在の「八朔参り」
「八朔参宮」が行われていた旧暦の8月1日は、新暦の太陽暦では8月下旬から9月下旬(令和7年は9月22日)に当たる。つまり、米作りにとっては、稲穂が膨らみ、黄金色になって稔りを迎える大切な時期。おそらく農家の人々は、とりわけこの時期、朝に夕に天候を気にしながら、不安と緊張の中で稲穂を見守っていたことだろう。
特に伊勢の神宮の主祭神は、太陽にもたとえられる天照大御神。近隣に住む農家の人々にとって、これほど心強い存在はなかったにちがいない。五穀豊穣への祈りは、自ずと他の「お朔日参り」より切実なものとなり、年によって収穫が間に合えば、稲の初穂を携えて、それが無理ならば、当時は五穀の中で1番早く収穫ができたという粟の初穂を神前にお供えし、これまで無事に稲が育てられたことへの感謝と、来たる豊かな稔りを祈ったことが、八朔参宮の源にあるのではないか。そんな推察も成り立つ。
神前に五十鈴川からいただいた水をお供えし、これまで無事過ごせたことへの感謝と、1年間の無病息災、家内安全を祈る。「お供えする際は、ペットボトルの蓋を外すこと」と、年配の女性に教わった。その後、このペットボトルの水は、自宅の神棚に供える。
現在は、さすがに粟や稲の初穂を携えて、とはいかないものの、新暦の8月1日の早朝に、やはり外宮、内宮の両宮に参拝し、五穀豊穣や家内安全、無病息災を祈る「八朔参り」が行われている。
特に内宮では、この日に宮域内を流れる五十鈴川の水を汲み、川のほとりに鎮座する瀧祭神(たきまつりのかみ)にお供えし、1年間の無病息災と家内安全を祈るという、伊勢地方独特のならわしが伝えられている。
ちなみにこの水は、持ち帰って自宅の神棚にお供えし、もし体のどこかに痛みが出たときは、その箇所に浸けると痛みがとれると信じられている。
五十鈴川のほとりに鎮座する瀧祭神とは、どんな神様?
五十鈴川の水をお供えする瀧祭神は、内宮の所管社の1つ。と言っても、お社に社殿はなく、御祭神の瀧祭神は、御垣(みかき)と御門に囲まれた岩の上にお祀りされている。
お社の近くには五十鈴川と島路川(しまじがわ)が合流する、いわゆる川合(かわい)があり、たつ瀬、つまり、水が激しく流れる瀬のほとりに鎮座することから、川の守り神として、天照大御神が鎮座する前から祀られていたのではないか、とも考えられている。
内宮の所管社の1つ、瀧祭神。すぐ近くに五十鈴川が流れている。
ちなみに、地元では御正宮へお参りする前に、まず御手洗場で手と口を清め、瀧祭神で自身の住む場所と名前を告げた後、「これから向かいますのでよろしくお願いします」などと、天照大御神に取り次いでいただくならわしがあり、「とっつきさん」、「とりつぎさん」などと呼ばれているという。
そんな庶民にとって身近な存在である一方、祭祀に関しては、別宮に準ずる扱いを受けているとも聞く。どうやら瀧祭神は、特殊な神様であるようだ。
毎月1日、神馬が御正宮を参拝する「神馬牽参(しんめけんざん)」
おかげ横丁のその日だけの楽しみ
毎月1日は、「神馬牽参(しんめけんざん)」と呼ばれる定例行事が行われる日でもある。神馬とは、天照大御神・豊受大御神に捧げられた御馬のこと。この神馬が、内宮、外宮の両宮で、毎月1日、11日、21日の朝に、皇室から捧げられていることを示す菊の御紋入りの馬衣を付けて、御正宮にお参りする。
外宮での「神馬牽参(けんざん)」の様子。神馬は、内宮は石階(せっかい)と呼ばれる石階段の下、外宮は御正宮を囲む1番外側の板垣の南御門の前で拝礼する。
馬は古来、神の乗り物とされ、神社に献納されるならわしが奈良時代からあったという。そのならわしは、時代とともに絵馬に置き換わっていったものの、神宮では、今も皇室からの献上が続いている。
人を乗せることはないというこの神馬は、両宮それぞれで2頭ずつ飼育され、神馬牽参の後は、しばらく両宮の宮域内にある御厩(みうまや)に控えている。涼やかで優しい目、穏やかな表情。見ているだけで心が和んでくる。
この日は、内宮の門前町であるおはらい町も、早朝からにぎやか。毎月の朔日参りに合わせて、さまざまな店で朔日粥や朔日餅が月替わりで用意されることから、それを目当てに訪れる人たちが、午前4時台から長蛇の列を作っている。
ちなみに、伊勢の老舗和菓子店「赤福」が8月に用意している朔日餅は、「八朔粟餅」。伊勢地方では、8月1日に縁起物として粟餅を食べるならわしがあったという。
おかげ横丁では朝市も開かれ、地場産の野菜などが並んでいた。
伊勢の老舗和菓子店「赤福」の前には、八朔餅を求める人たちでにぎわっている。
現在は多くの食事処や土産物屋が建ち並ぶおはらい町。だが、江戸時代までは、その様子は少し違っていたようだ。
というのも、当時この一帯には、御師(おんし)、つまり、諸国を巡って神宮の御神札(おふだ)を配布するなど、伊勢信仰を広めていた神職たちの館が軒を連ね、参拝者が訪れた際は、自身の館に宿泊させ、お祓いやお神楽を上げるなど、手厚くもてなしていたという。
かつてのお伊勢参りを想像しながら、外宮から内宮へ通じる参宮街道を歩く
八朔参りをきっかけに、伊勢地方独特のならわしに触れ、昔と今を行き来しながら取材を進めてきた。そんな1日の最後に、かつてのお伊勢参りの様子を想像しながら、外宮から内宮に通じる参宮街道を歩いてみることにした。
ご案内いただいたのは、神宮司庁広報室次長の音羽悟さん。駆け足のお参りでは味わえない、伊勢の新たな一面を知るひとときとなった。
伊勢市には、主に3本の河川が流れている。西から宮川、勢田(せた)川、五十鈴川の3本で、かつては関東、関西のどちらの方面から伊勢に入っても、宮川を渡らなければ神宮に参拝することができなかった。
関東方面から伊勢街道を歩いてきた人々は、現在JR参宮線の鉄道橋がある近くの「桜の渡し」、関西方面から伊勢本街道を通ってきた人々は、少し南にある度会橋(わたらいばし)付近の「柳の渡し」で船に乗り、宮川を越えたという。その後、両者は、現在欄干のみが残る筋向橋(すじかいばし)で合流。そこから外宮へ向かったとされている。
つまり、かつて徒歩で参拝する一般の人々は、地理的な面から、外宮の、しかも正門ではなく北御門(きたみかど)から参拝するのが自然だったという。
宮川を望む。現在JR参宮線の鉄道橋が架かる近くに、関東や東国から伊勢街道を歩いてきた人たちが利用する「桜の渡し」と呼ばれる渡し場があった。かつて堤には桜が咲き、茶屋が建ち並んでいたという。
正門を利用するのは、勅使(ちょくし=天皇の使者)などが訪れたとき。彼らは、現在の外宮参道の一角に設けられた下馬どころで馬を下り、そこから歩いて御正宮に向かったという。
参拝後は、室町時代末期の永禄年間に作られたという「伊勢古市(ふるいち)参宮街道」を歩いて内宮へ。
ちなみに古市とは、外宮と内宮の中間に位置する「間(あい)の山」にあった歓楽街で、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ日本の3大遊郭の1つとして栄えた場所。江戸時代後期の作家、十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)による滑稽本『東海道中膝栗毛』でも、弥次さん喜多さんが古市の街を訪れた様子が描かれている。
かつての歓楽街、古市の面影を残す麻吉(あさきち)旅館。当時、古市で遊ぶのは神宮へお参りする前ではなく、後という暗<wbr />黙の了解があったという。
かつての参宮街道を巡る。歴史の名残が随所に見られる「間(あい)の山」
もっとも、音羽さんは、本来の参宮街道は少し違うルートを通っていたと言う。
「現在外宮の前を通っている御木本(みきもと)道路も、御幸(みゆき)道路も昔はなく、勾玉池を周回する道も、江戸時代の寛永17年(1640)に整備されたものです。それ以前は、今はありませんが、外宮の風宮(かぜのみや)から、裏手の山を尾根づたいに下りて(宮域外の)岡本に出るか、もしくは、現在の外宮参道にある「豚捨(ぶたすて)」という店の前を通ってから岡本に出て、そこから現在の伊勢古市参宮街道を歩き、御贄(おんべ)川(=勢田川の異名)の川筋に沿って歩いたのでしょう」。
御贄川を渡る際は、小田橋(おだのはし)を利用したとされている。この橋の名は、平安時代の文献にも記されていることから、その歴史は古いと思われる。
だが、現在の小田橋から続く尾部坂(おべざか)は新しい道。江戸時代以前は、小田橋より1本北にある現在の簀子(すのこ)橋から、「間(あい)の山」と呼ばれる小高い丘陵へ続く細い道を歩いていただろうと、音羽さんは言う。
外宮と内宮の中間に位置する間(あい)の山の道。奈良時代からこの道を通って内宮へ向かっていたという。左には外宮神主の度会(わたらい)一族にも関係する岡崎宮妙見堂があったが、今はない。
「現在の簀子橋のことを、昔は小田橋と呼んでいた可能性もあると思います」。
たしかに、簀子橋から伸びる細い道を歩くと、積み重なる歴史を感じさせる場所が随所にある。たとえば、1000年以上の歴史を持つ妙見堂の跡があること、また、江戸時代まで代々外宮の神主だった度会(わたらい)一族が、弥生時代と平安時代に居住したとされる住居跡があり、一族の氏寺も、かつてこの近辺にあったこと、そして、倭姫命の御陵と考えられる、宮内庁管轄の宇治山田陵墓参考地があること‥‥‥。興味深い場所が次々に現れる。
度会氏の居宅があったとされる隠岡遺跡。「度会氏は、当時は磯部と名乗っていたでしょう」と音羽さん。弥生時代後期のむらの跡や平安時代の建物群跡が中心の遺構(いこう=生活の跡)で、眼下に勢田川(別名御贄川)が見渡せる。
外宮と内宮の間を流れる勢田川。神宮へ献上する魚を獲っていたことから、御贄川(おんべがわ)の異名がある。物流も盛んで、川沿いには伊勢の台所と呼ばれる問屋街もあった。
気がつけば夕刻。今と昔が交錯するなか、夢中で伊勢の町を歩いた1日が、静かに、ゆっくり暮れようとしていた。
Photograph by Akihiko Horiuchi
Text by Misa Horiuchi
伊勢神宮
皇大神宮(内宮)
三重県伊勢市宇治館町1
豊受大神宮(外宮)
三重県伊勢市豊川町279
文・堀内みさ
文筆家
クラシック音楽の取材でヨーロッパに行った際、日本についていろいろ質問され、<wbr />ほとんど答えられなかった体験が発端となり、日本の音楽、文化、祈りの姿などの取材を開始。<wbr />今年で16年目に突入。著書に『おとなの奈良 心を澄ます旅』『おとなの奈良 絶景を旅する』(ともに淡交社)『カムイの世界』(新潮社)など。
写真・堀内昭彦
写真家
現在、神宮を中心に日本の祈りをテーマに撮影。写真集「アイヌの祈り」(求龍堂)「ブラームス音楽の森へ」(世界文化社)等がある。バッハとエバンス、そして聖なる山をこよなく愛する写真家でもある。
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