すでにトミタオートは株式会社へ改組されていた。事業はいっそう勢いを増してゆく。そして富田が30歳を迎えたころ、あのブームがやってきた。
老若男女を問わず日本中の人々を熱狂させたスーパーカーブームだ。当時、富田は自宅の一階をショールームに飾りきれないスーパーカーたちの倉庫にしていた。週末ともなればそこに300人以上の子供たちがカメラをもってやってくるようになった。平日でも学校が終わる時間になると100人くらいの子供が集まったという。
いろんな事件にも悩まされた。スーパーカーのエンブレムが盗まれる、などは日常茶飯事で、なかには鍵束をごっそり盗まれたこともあった。これにはさすがに往生したという。また、ある夜などはガレーヂにもぐり込もうとシャッターの穴を通り抜けようとした子供が途中でつっかえてしまい、救急車を呼ぶ事態になったこともあった。
熱狂は人々を狂わせる。同時に、そんな熱さこそが社会を動かす原動力であったことも確かだ。40年が経った今、自動車の産業や文化を支えているのは、あの頃カメラを持って自転車で必死になってフェラーリやランボルギーニを追いかけていた、スーパーカーブーマー世代が中心となっている。
初めて輸入したカウンタックLP400(最初期型)は、富田にとって数あるスーパーカーのうちで、最も思い出に残っている1台だ。
エンリコ山崎氏の手配で赤いカウンタックが神戸に上陸した。通関すると、新聞社が取材に押し寄せた。明くる日の新聞に大きなニュースとして取り上げられたという。
首を長くして待ったほとんど新車のカウンタックLP400を初めて運転したときのことを、富田は未だ鮮明に覚えている。スプリングの効いた重めのクラッチを踏み込み、これまた重いアクセルペダルを思い切って踏んでみたならば、それまでウ〜ウ〜ウ〜と低く唸るだけだったV12DOHCエンジンが、まるでライオンのように吠えはじめる。エンジン回転はみるみる上昇し、留まるところを知らないかのよう。どこまでも、どこまでも回っていきそうだった。
街中はすべて2速で事足りた。カウンタックで出掛けると、クルマを停めるたびに人垣ができて、再発進に苦労をしたという。人気のない場所を探して走っていても、どこからともなく人が集まってくる。山口百恵と同レベルかそれ以上の人気者だったのだ。
高速道路では、今までにない加速の伸びと安定感をみせていた。
ランボルギーニミウラを幻のイオタ風にメーカーが改造したミウラSVJを仕入れたこともあった。のちに日本から海外のオークションへと流れ数億円の価値がついた個体である。
ある日、テレビ番組などでいっぱしのスーパーカー博士になっていた子供にねだられて、イオタで高雄嵐山まで紅葉狩りに出掛けた。当時から紅葉シーズンの京都は混み合っていたが、道が渋滞するほどではなかったという。だからイオタで出掛けようと思ったのだ。
きれいに舗装された高雄への道のりを2速で駆る。カウンタックより豪快なライオンの雄叫びをイオタ=ミウラSVJはあげていた。
ミウラのV12エンジンは、パッセンジャーシートの後、壁一枚を隔てて数十センチの場所に横置きされている。SVJはノーマル仕様には存在するエアクリーナーが省かれており、その代わりに12本のエアファンネルが片バンク6本ずつ屹立していた。ダウンドラフトだ。その様子がルームミラー越しに見える。ミウラの魅力のひとつである。
高雄の山を2速で引っ張っているとき、ふとルームミラーを見れば、ファンネルとキャブレターの間からチロチロと炎が見えていた!
富田は急いでクルマを停めて、子供が不安にならないよう何気なく離れた場所に誘導し、自分はクルマにもどってゆっくりと巨大なリアカウルを開けた。急に開けると炎に酸素を供給してしまう=火に油を注ぐことになるからだ。
けれども、開けたときの負圧で地面から空気が大量に注ぎこまれ、炎が想像以上に大きくなってしまった。ヤバい! 富田はとっさに、お気に入りだった茶色の革コートでばたばたと炎をはたきはじめる。
どれくらい時間が経ったのだろうか。火がようやく鎮まりそうになったとき、「これを使って!」と横から消火器が差し出された。消火に無我夢中だったから富田はまるで気づかなかったけれど、見れば反対車線が大渋滞している。スーパーカーブームの真っ最中にイオタが燃えているのだから、見物渋滞するのも当然だ。消火器を持ってきてくれたのは、観光バスの運転手だった。