Enthusiastic Bicycle

傑作小径自転車「モールトン」は、“吊るし”で乗ってはいけない?

知れば知るほどオモシロイ、深淵なる自転車の世界。日本で“もっとも多くの自転車に乗った男”、自転車ジャーナリストの菊地武洋が、“ちょいマニアック”にその魅力を伝える。 文・菊地武洋 写真・三浦孝明
傑作小径自転車「モールトン」は、“吊るし”で乗ってはいけない?
フレームのみで80万円

簡単なことは便利だが、おもしろさや愉しさとは関係ない。それこそ趣味の世界では、おもしろさは少々の不便や面倒臭いことの中にある。そんなことを教えてくれる自転車が、イギリスの小径車メーカー“アレックス・モールトン”だ。

ブランド名にもなっている創業者モールトンは、小型自動車の傑作「ミニ」のラバーコーン式サスペンションを設計した後、1962年に独創的な機構を持つ自転車メーカーを設立。彼は伝統的なダイヤモンドフレームではなく、サスペンション機構を備えた小径ホイールの新作をロンドンで行なわれたサイクルショーで発表、以来、自転車エンスー垂涎のブランドとして、現在も独創的な輝きを放っている。

ひとくちにモールトンと言っても、年式やフレーム形状、グレードによって様々な違いがある。今回、モールトンのスペシャルショップである「寺田商会」でお借りした「AM-SPEED S」はアメリカ大陸横断レース用に開発されたモデルで、極限まで軽量化するためフレーム分割機構も省かれている。車名の最後の「S」はステンレスのことで、人気の高いレアモデルだ。すでに生産中止になっているが、定価はフレームのみで80万円。パーツもイタリアのカンパニョーロ社の最高級パーツをふんだんに奢っており、いま同じモノをつくろうとしたら1台200万円近い金額になるという。

傑作小径自転車「モールトン」は、“吊るし”で乗ってはいけない?
ギャラリー:傑作小径自転車「モールトン」は、“吊るし”で乗ってはいけない?
Gallery20 Photos
View Gallery
ヌルヌルと滑るように走る

モールトンは生産台数が少ない割にモデル数が多い。それゆえ、どのモデルも希少価値が高く、マニアックな愉しみにも奥深さがある。だが投資目的で買うのでなければ、どのモデルを選ぶかよりも、きちんと整備されているかどうかが大切だ。

今回試乗した「AM-SPEED S」は路面の凹凸を1つ1つ包み込み、ヌルヌルと滑るようにバイクが前に出ていく。これはモールトンの乗り味というよりも、組み上げた寺田商会の仕事ゆえである。筆者はこれまでに十数台のモールトンに乗ってきたが、ここまでフリクションロスが小さく、淀みなく進むAMシリーズに出会ったことがない。

オリジナルのモールトンのフレーム精度はお世辞にも褒められるようなレベルにない。トラス構造のフレームは重量剛性比に優れるが、溶接が増える分だけ精度は狂いやすくなる。非力なヒューマンエンジンの自転車において、精度不良によるパワーロスは数値以上に大きく感じる。それを、ここまで上質な乗り心地に仕立てるには、想像を絶するほどの手間のかかる作業が欠かせない。

「パーツはすべてバラし、スポークの長さも最適化してから組みます」とオーナーの寺田光孝さんは言う。サスペンションのセッティングも低速域ではしなやかに、高速域ではレスポンスの俊敏さが際立つように、と配慮されている。扱いやすく万人から好まれそうだが、ライダーが変わればセッティングも変わる。サスペンションやアライメント調整など、モールトンは手間のかかるバイクだ。それゆえにショップやオーナーズクラブとの関わりが、快適にモールトンを走らせるコツだ。

サドルとハンドル高さの調整幅が大きいため、さまざまな身長、体格に対応できる。
トラス構造になる前のF型フレームと呼ばれるモールトン。手前はブリヂストンサイクルと共同開発された「ブリヂストン・モールトン」。
車名が記されるのはシートチューブの表記だけ。ヘッド&シートチューブはレイノルズ社のチューブが使われているという。
フレームの中心にはモールトン博士のシグネチャーが施されている。
SUS304という素材自体は珍しくないが、肉薄のステンレスパイプは高い溶接技術を要求する。
アウターケーブルに記されたカンパニョーロのロゴ位置が左右揃えてカットされている。簡単に思えるが、実はかなり手間のかかる作業だ。
今回、取材に協力してもらったのは日本でも屈指のモールトンのスペシャルショップ「寺田商会」。歴代の貴重なモールトンが並ぶ店内はまるでミュージアムのようだ。