「和魂洋才」という言葉がある。日本的な精神をもって西洋の技術や知恵を採り入れて新しいものを創造する、といった意味、ということにひとまずしておく。1981年に現れたスズキGSX1100S、“カタナ”はその言葉が入れ替わった、“和才洋魂”とも言えるプロセスを経て生まれた。前衛異形のモデルながら大ヒットし、80年代スポーツバイクのエポックを画した。
スズキは1970年代、海外市場の拡大を狙って世界各国に法人を設立したが、当時の発展途上国が多く、本丸たるヨーロッパへの進出は次なる課題だった。モータスポーツでは二輪世界グランプリに参戦し、人気ライダーのバリー・シーンを擁してチャンピオンを獲得しており、そのスポーツイメージを反映させた象徴的なロードスポーツバイクが必要だった。
同じころ、ドイツのバイク雑誌『MOTORRAD』が公募した「Alternatives Motorrad Konzept (バイクは今後どう進むか)」というコンペティションに、イタリアのMVアグスタ750Sをベースにしたコンセプトモデルが掲載された。小さく尖ったフェアリングと極端な前傾デザインが特徴の、きわめて斬新なデザインのバイクだ。
それまでのバイクの“上屋”は、基本的に路面と平行にデザインされていた。主に燃料タンクやサイドカバーの形状などだ。だがアグスタの上屋は前方に向かって斬り込んでいくようなウェッジ・シェイプだった。デザインしたのはドイツのターゲット・デザイン。BMWで多くのバイクにかかわってきた、ハンス・ムートをフロントマンとするスタッフが独立してできたオフィスだ。
スズキはこのデザインに衝撃を受ける。ただちにドイツ法人設立準備室を通してターゲットに接触した。アグスタは経営不振により二輪事業から撤退することが決まっていた。このコンセプトが商品化されることは考えにくい。アグスタ・ベースは単なるテストベッドで、ターゲットはデザインを他社に売り込みたかったのでないか、というのがスズキの判断だった。
ムートらデザイン陣は日本メーカーからの依頼を受け、鋭く斬り込むウェッジ・シェイプを日本刀に翻案した。カタナの登場当時、チーフ・デザイナーとして紹介されたハンス・ムートは、むしろデザイン部門をまとめるディレクターあるいはスポークスマンの立場だった。スズキに対し「武器であり芸術品である“KATANA”を、我々はデザインに盛り込む」と説いたと言う。
プロトタイプは80年のケルン・ショーに展示され、大きな反響を呼んだ。二輪ファンの間では今なお「ケルンの衝撃」と語り継がれるほどのインパクトがあった。来場者によるアンケートでは、賛否が真っ二つに分かれたという。これまで「高性能だがデザインは……」と言われてきたスズキは、この両極端の反応を知り、だからこそ市販を決定したのだった。ターゲット・デザインに対して、こう告げたという。
「我々はあなたたちの着想と手法をすべて尊重する。だから、あなたたちも我々の生産技術を信じてほしい」
冒頭に書いた“和才洋魂”である。プロトタイプからシート形状、メーター位置の変更、透明バイザーの追加など最小限の変更を施し、翌81年、欧州市場に向けて「GSX1100S」が市販された。そのサイドカバーには「刀」の文字と日本刀のイラストを組み合わせたグラフィックが描かれていた。